
眞光寺の歴史
眞光寺は広島市にある浄土真宗本願寺派(西本願寺)のお寺です。
お釈迦さまと親鸞聖人の教えに生き
お念仏と仏さまの慈悲につつまれた世界をめざして
皆さまとともに歩んでまいります
眞光寺第17代住職 青原令知
應時山眞光寺(おうじさんしんこうじ)
所在地:広島市中区十日市町2丁目1-27
宗教法人認可:昭和29年2月11日
包括法人:浄土真宗本願寺派(西本願寺)
代表役員(住職):青原令知

應時といふは、ときにかなふと いふなり。
—『尊号真像銘文』
眞光寺の黎明 —下安村三代之住持
現在の広島市安佐南区祗園 4 丁目あたりに 「青原」という地名が残る。眞光寺住職の姓の由来とも伝えられるこの地からほど近くで、眞光寺は発祥したと伝えられる。
眞光寺は、室町時代の寛正年間 (1460-1466) 頃、初代恵然により、佐東郡金山(武田山)東麓北下安村(現在の広島市安佐南区祇園)に開創されたという。当時の武田山には、武田氏の 居城銀山城があり、広島別院の前身である仏護寺をはじめ多くの寺院が麓に建立された。元々この地には、全国に広がる祇園社のひとつがあった。国家鎮守のため般若経も読誦される神仏習合の寺社で、宗派の観念も薄いものであったが、眞光寺はこの祇園社の一塔頭として建立された可能性もある。

武田山登山道の途中にある道標。青原の文字が妙に郷愁を誘う。

武田山山頂から見下ろす。木立の向こうの麓に、
かつての真光寺があったのだろうか。
寺の記録によると初代恵念の後、眞光寺は第二代願浄、第三代恵達と相続され「下安村三代の住持」と称されている。
そして明応年中(1492−1501)に浄土真宗に改宗したとされるが、かろうじて住職の名が残されているだけで詳しい記録はなく、現在地に移転するまでの動向は定かではない。
文政年間 (1818-1830) に編纂された広島藩の史料『知新集』に、北下安村に時應山眞光寺という古跡があることが伝えられ、その 頃にはまだ当地に残像を残していたようだ。しかし現在では祗園一帯の開発が進んでその面影もなく、眞光寺の位置すら特定す ることができない。
應時山眞光寺歴代住職
開 基 恵然(えねん)
第 2 代 願浄(がんじょう)
第 3 代 恵達(えだつ)
第 4 代 祐念(ゆうねん)?-1651
第 5 代 了信(りょうしん)?-1683
第 6 代 恵海(えかい) ?-1715
第 7 代 了 円(りょうえん) ?-1733
第 8 代 知宏(ちこう) 1690-1740
第 9 代 暎吟(えいぎん)?-1753
第10代 了恵(りょうえ)1714-1783
第11代 秀峰 (しゅうほう)1758-1810
第12代 常存(じょうぞん)?-1821
第13代 顕潤 (けんじゅん)?-1868
第14代 智水(ちすい)1858-1934
第15代 慶哉(けいさい)1882-1845
第16代 淳 信(じゅんしん) 1928-2000
第17代 令知(りょうち)1959-
江戸期 —広島城下へ
第四代祐念の時代、元和年間 (1615-1624)に眞光寺は広島城下に移転した。古い城下地図を見ると現在地より南の相生通辺りに眞光寺とあり禅宗とされている。当初の移転先はその場所でしかも禅宗の時期もあったのかもしれない。移転の経緯は明らかでないが、広島城築城以来、当時は仏護寺をはじめ多くの寺院が寺町に集められていた。時代の趨勢に乗って移転を余儀なくされたのであろう。
寛永 7 年 (1630)、眞光寺は本願寺より木仏御本尊の裏書を下附され、正式に浄土真宗の末寺として寺号が認証された。後世、当時の住職祐念は「中興の開基」と称されている。
第八代知宏は、眞光寺を大きく発展せしめた功労者である。新庄村(現在の山県郡 大朝町新庄)超専寺より入寺し、享保 15 年 (1730)、 本堂を新築し(同年 9 月 1 日上棟式挙行)、元文 元年 (1736) には梵鐘を新調したことが記録される。知宏の墓は今も境内墓地に残り、そこには「中興」と記して讃えられている。実際、過去帳の記 載によるとこの時期の門徒の数は急増しており、 知宏が中興と称される一端がうかがわれる。だから、眞光寺には中興が二人いることになる。
第十代了恵の時代の明和5年(1768)、それまで「時應山(じおうさん)」と称していた山号が現在の「應時山(おうじさん)」と改 められている。どこまで正式な名称だったか疑わしいものだが、「應時」(時に応じて)という言葉は仏典 によく見られるが、「時應」という言葉はない。どこかで伝承が誤ったのかも知れない。
現在地の本川流域には昔、上流から切り出された材木が集積する木場があり、寺近辺にも昭和40年代頃まで多くの木材業者が軒を連ねていた。そのためこの時代から上流の中調子(現在の安佐南区川内)や河口の元宇品などの林業、水運関係者や船大工のなどが多く門徒となって縁を結んでいた。

寛永年間の広島城下絵図(『広島市史』より)。
下方、相生通辺りに禅・眞光寺の字が見られる。

正徳年間の広島城下絵図(『図説広島市史』より)。ここでは眞光寺が現在地に見える。ただ「真妙寺」のように読める。
第14代智水 —明治の隆盛
幕末頃には、十数年無住の時代もあったが、明治に入り第十四代青原智水は、明治 9 年 (1876) に 18 才で入寺して以来、48 年にわたって住職を務め、眞光寺の発展のため奔走した。
明治 38 年 (1905)6 月 2 日、芸予地震により眞光寺の本堂はほぼ全壊した。広島県で全壊 56 家屋、死者 11 人をもたらした大地震であった。ちょうど日露戦争の最中、再建には非常な困難を伴ったと思われる。しかし同年 11 月には再建の募財が始められ、翌年 2 月に起工式、6 月には立柱式が行われ、完成を迎えた40年(1907)10月15日、16日に落成慶讃法要が厳修されるに至った。これが、第二次大戦前まであった本堂である。
智水の活躍は寺内にとどまらない。明治 37 年 (1904)、本山の大谷籌子お裏方が提唱された仏教婦人会設立の気運を受けて、自ら先 頭に立って翌年には真宗安芸婦人会を結成した。 わずか 4 ヶ月の間に会員数 15000 人を誇ったという。この婦人会の働きかけにより、大正 14 年 (1925) に打越町(現在は太田川放水路の中)に安芸高等 女学校(現在の安芸幼稚園)が設立された。
また智水は、西向寺高松悟峰和上 (1866-1939)の義甥にあたる関係から、明治 39 年 (1906) に真宗学寮が創設されたときの発起人にも名を連ねていて、以来真宗学寮との繋がりは現在まで続いている。
明治という時代は仏教にとって変革期であった。開国により今まで知らなかった西洋の宗教や仏教の故郷インドの文化に触れ、仏教の学び方も一気に近代化した。その時代の匂いをいち早く嗅ぎ取りすぐさま実践に移したのが智水だったのである。


智水の時代に再建された本堂。この本堂を写した写真はほとんど原爆で失われ、現在の残るのは、わずかにこの2枚のみである。
第十五代慶哉 —仏教学者の系譜

昭和9(1935)年5月31日、智水の葬儀において。前列椅子の左から慶哉、淳(淳信)、坊守綾、慶哉の長女郁子、慶哉の後妻貞子。慶哉の後ろが終戦直後の住職代務教法寺鷹谷俊城、最後列左端が明照寺高き観道。
第十五代青原慶哉(1882-1945)は東京帝国大学印度哲学科に学び、仏教学の 嚆矢、高楠順次郎師 (1866-1945) に師事し、後に日 出高等女学校(現在の日出女子学園高校)で教鞭をとっていた。インド哲学・インド仏教学関係の論稿・ 翻訳を多く著わし、学問に生きた人であった。
智水が往生した昭和 9 年 (1934)、慶哉は正式に 真光寺第十五世住職を継職する。学者であった慶哉は、真光寺の歴史も丹念に調べ て記録にとどめた。第二次大戦が激化すると、ご本尊・過去帳とともにこれを疎開させ、焼失を免れた。 多くの旧記の失われた中、慶哉の書き記した記録は 極めて貴重である。
原爆そして復興 —留守を守った人たち
昭和 20 年 (1945)8 月 6 日、原子爆弾により広島市は 壊滅する。眞光寺では、住職慶哉をはじめ坊守貞子、 寺族計 5 名が死亡した。過去帳に記載された眞光寺門徒の原爆死没者は、8月6日のみ で296人、8月末までに423人、 その年の内に500人に達している。本堂・庫裡・鐘楼・山門等 の建物も全壊焼失したが、御本尊・過去帳等の重要な宝法物は、疎開してあったため焼失を免れた。
慶哉の長男淳信 (1928-2000) は当時、龍谷大学予科に在学中で京都にあり被爆の難を逃れたが、学生であったため、安芸郡江田島村(現在の江田島町)教法寺住職、鷹谷俊城が住職代務となり、安芸高等女学校の教頭であった多賀谷景尚 (1906-1999) が留守役に就任して、寺務を執った。
街も次第に復興し始めた昭和 25 年 (1950)、本堂再建の募財と建築が開始され、同 26 年 (1951)8 月に完工した。募財が目標に達せず、土地を売却して建設費を補填するなど、戦後の混乱の中での復興には非常な困難があった。

建設中の本堂前で(昭和25年頃)。左端が淳信、中央の少年が弟信行、その真後ろが住職代務鷹谷俊城。